考察 陰陽大戦記の問題点について その1


筆者が知る限り、アニメ版陰陽大戦記に関する批判的意見で
かなり多いものの一つが
「キャラクターが先行しすぎている」
(具体的に言うと、「萌え描写があざとい、過剰だ、狙いすぎ」など、
「萌えキャラ出しすぎ」とか「子ども向けとしてはストーリーが丁寧ではない」とか
全部ひっくるめて筆者は定義している)
というものである。
これには筆者は同意して・・・というか、多分このはてなダイアリー見てる限り
(見てる人いるのか?)では同じ考えをある程度持っているように見えると思う。


しかし、筆者はこの考えに、やはりある程度の異議を唱えたいのである。
まず、果たしてキャラクター志向はストーリーを弱めるのか?という事がある。
例えば、ギリシャ悲劇「エレクトラ」はエレクトラという
強烈なキャラクターを主題とした物語であり、あの主人公無しにはあの物語は
進行・成立し得ないのである。
キャラクターは、突き詰めていけばそれ自体が一つのストーリーとなる筈だ。
では、陰陽大戦記のキャラクター達は一つのストーリーを己自身で形成したか。
・・・筆者が思うに、「ほぼ」形成されていないからこそ批判されているのだと思う。
そしてそれは、陰陽大戦記に於いてはキャラクターの要素すら不十分、
つまり「萌えだけ」どころかキャラ萌えすらない、多くの批判的意見が
まだ生ぬるく思えるような論を展開できる可能性があるのだ。


勿論、キャラクターの人気は(ネットでは)バカ高く、同人誌も多数作られている。
肯定的なレビュアーの中でも特に人気の無いリクも、かなり同人のネタになっている、
というか、リクはジャンプアニメ系主人公の中では、
相当同人関係の人気が高いように思う。
そもそもアンチにすら「キャラ萌えアニメ」と蔑称を受けるのだから、
キャラクター造形が出来ていないと言うのはやはり間違っているのであろうか。


ここで筆者が言いたいのは、陰陽のオタク・・・に限らず、多くの人間は、本当に
物語の「キャラクター」に萌えているのか
という事である。
かつて、とある映画論の先生は物語は関係を描くものであると話していた。
筆者の考えとは、腐女子に限らず多くのオタク
(あるいは普通にドラマを見る時の一般人もそうかも知れない)は
キャラクターよりもカップリング・・・あるいはシチュエーションに萌えるのではないか、
という事である。


結局、「何を今更」感の漂いまくる平凡な話になってしまったのだが、
例えば「ツンデレ」という言葉自体も、キャラクター自身の、肉体や内面の個性に関する
萌えのラベルというより、人との関わり方という側面が強いとは言えないだろうか。
関係の構築の仕方は、それもまたキャラクターの内面・・・なのだろうか。
「あらゆるキャラクターに対してツンデレ」というラベルなら分かるが、
ナズナを含めた多くは「状況や対象人物によってツンデレのラベルが添付される」
のである。これは、内面性ではなく、外面性のラベルとでも言えはしないだろうか。
また、「ニーソ萌え」とか「巨乳ハァハァ」という外面的な好意についても、
それは性的関係を想定した嗜好と言うことは不可能だろうか(かなり強引だが)。
そういった萌え要素は、本当に「キャラクター」自体のラベルなのか?


即ち、陰陽大戦記が文芸の面で多く人を惹きつけたのはキャラクターそのものでは
無く、「キャラクター周りのシチュエーションの構築」だと思うのである。
実際、筆者もモモ萌えで見始めて、次第にユマミズ・ソマナズに映り、*1
また、トンデモバトルやあからさまに提示される陰陽的対比構造も楽しみになったが、
ソーマやナズナといった単体のキャラクターに萌えた事はモモ以外
全くと言って良いほど存在しない。というかほぼ全てアニメ未登場の式神である(涙)


そして、筆者はキャラの位置づけは神がかったものが提示されたが、
それを一流の萌え燃えストーリーに仕立て上げるほどのキャラクターの構築、
そして動かし方がまずかった、というより能力不足だったと考える。
その結果、包括的に見ればちぐはぐなキャラクターとストーリーだが、
話単体で見れば良い事を言っていたり感動的な演出をしていたり、
何か盛り上がったりする不思議なアニメが作られたのでは無いだろうか。


この問題点を改善するには、頭でっかちな設定・キャラクター数をいくつか
切れば良いとか、脚本家の統率を取れとか、ありきたりなことしか言えないので
今日はここまで。

*1:あっ! 語呂が良い!!